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  インドネシア研究断章

             在野研究者からのメッセージ



 

  新刊書評

歴史・社会・経済・政治の各分野のインドネシア研究について、2000年〜2016年までに出版された主な文献は、下記の論文で論評しています。

宮本謙介「インドネシア社会経済史研究の再検討ー日本における近世史〜現代史研究ー」『亜細亜大学アジア研究所紀要』第44号、2018年3月。

このページの新刊書評は、原則として2017年以降の出版物を主に取り上げます。
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書き下ろし新刊書評
※松村智雄『インドネシア国家と西カリマンタン華人―「周辺」からのナショナリズム形成』慶應義塾大学出版会、2017年
※山口裕子・金子正徳・津田浩司(編著)『「国家英雄」が映すインドネシア』木犀社、2017年3月
※山口元樹『インドネシアのイスラーム改革主義運動』慶応義塾大学出版会、2018年
※富永泰代『小さな学校―カルティニによるオランダ語書簡集研究』京都大学学術出版会、2019年。
※倉沢愛子『インドネシア大虐殺―二つのクーデターと史上最大級の惨劇』中公新書、2020年
※水野広祐『民主化と労使関係―インドネシアのムシャワラー労使紛争処理と行動主義の源流』京都大学学術出版会、2020年
※川村晃一(編)『2019年インドネシアの選挙―深まる社会の分断とジョコウィの再選』アジア経済研究所、2020年
※小西鉄『新興国のビジネスと政治―インドネシア バクリ・ファミリーの経済権力』京都大学学術出版会、2021年
※中島成久『アブラヤシ農園開発と土地紛争―インドネシア、スマトラ島のフィールドワークから』法政大学出版局、2021年



※松村智雄『インドネシア国家と西カリマンタン華人―「周辺」からのナショナリズム形成』慶應義塾大学出版会、2017年
本書は、西カリマンタン華人社会の現代史を「辺境性」と「地域からのナショナリズム」という視点から捉えようとする研究である。まず、各章の要点をまとめよう。
「序章」は、「辺境」研究の意義と、インドネシアおよびカリマンタンの華人研究のサーベイから成る。著者によれば、西カリマンタンは、植民地時代を含めて国家の実質支配が及んだことのない自生的組織の地域であった。 独立後インドネシア国家の一州(1957年に西カリマンタン州成立)となってからも、受動的に国家に組み入れられたのではなく、独自の受け止め方で国家権力に対応(反抗・交渉・妥協)し、現在の西カリマンタン華人社会が形成されてきたという。 そこには、国家史・国民史から抜け落ちてきた人々の営みに目を向け、単線的な歴史観を相対化すること、また国家による上からのナショナリズム形成ではなく、地域からのナショナリズムの反作用を捉えるという問題関心がある。 インドネシアの華人研究についても、国家統合論・同化論を主流とする研究動向に対して、同化政策への辺境華人社会の主体的対応と適応の内実を重視する。そして国民統合の枠組みには収まらない国境を越えた地域間華人ネットワークにも注目する。
第T章「インドネシア国家との弱いつながり」では、1950年代までの西カリマンタン華人社会の特徴が説明される。西カリマンタンは地理的に近いシンガポールやマレーシア領サラワクとの人的・物的交流が盛んであり、中国語教育・中国語マスメディアの普及によって、生活言語としての客家語・潮州語に加え、中国語を共通語とする「中国人」意識が高かった。 つまり、西カリマンタン華人社会は、「地理的辺境」と「人的辺境」という「二重の辺境」に位置していたことになる。
1950年代後半、インドネシア国家が当地に影響を与え始めたのが、「華人の国籍問題」(1958年国籍法、中国国籍かインドネシア国籍の選択)と「経済のインドネシア化」(1959年大統領令、大都市部以外での華人商業の禁止)であった。 しかし、当地への施行が徹底していなかったために、影響は限定的であった。
第U章「西カリマンタンの軍事化と華人」は、カリマンタン華人にとってインドネシア国家の存在が初めて重要な意味を持つことになった「1967年華人追放事件」を取り上げる。 1960年代前半、イギリス領サラワクの共産主義ゲリラと西カリマンタンのインドネシア共産党(PKI)が共闘(どちらも華人が多数)した反マレーシア運動は、スカルノ大統領の「反マレーシア闘争」宣言(1963年)によって一層活発化した。 1965年の「9・30事件」後、ジャワやバリで始まったPKI粛正は西カリマンタンにも波及し、1967年から国軍(シリワンギ師団)によるPKI掃討が始まった。 しかし地域の実情に乏しい国軍は、内陸のダヤク人を煽動して、PKI関係者と見做された多くの華人を沿岸部へ強制移住(難民化)させた。本章では、事件の背景、経緯、国軍の介入とダヤク人煽動の実態が、関係者へのインタビューによって再現されている。
第V章「スハルト体制期の華人同化政策と西カリマンタン華人」は、スハルト政権期(1966年〜1998年)の華人同化政策と西カリマンタン華人の対応が検討課題である。 スハルト政権の当地での同化政策(ナショナリズムの展開)は、社会インフラ(国営テレビの普及など)、徹底したインドネシア語教育、インドネシア国籍付与、パンチャシラ(国是)促進セミナー、華人の居住・移動制限、華人組織の解散、慣習・儀礼・祝祭の制限、イスラーム教への改宗などであった。 西カリマンタンは、ジャワ人・ムラユ人の軍人によって権力が掌握された。
これに対する華人側の対応として、西加孔教華社総会(華人自治組織の地方政府との交渉)、1987年サンバス県議会選挙(華人が支持する野党=民主党の躍進)、黄威康の運動(中国廟主催の祭礼実践)、ジャカルタへの移住(タナ・アバンやグロドックでの商業活動)などが紹介されている。
第W章「「改革の時代」の西カリマンタン華人」では、スハルト体制崩壊後(1998年〜)の華人の組織化、政治参加に注目する。ポスト・スハルト期の改革によって、華人の文化的・政治的規制が撤廃されると、西カリマンタン華人の政界進出も相次いだ。 そこでは、ジャカルタで事業を成功させた華人が、郷里の政界に進出するケースが多かった。選挙制度改革(首長公選制)を背景として、華人初のシンカワン市長や州副知事も誕生した。 一方で、華人の政界進出に対するムラユ人やダヤク人の警戒心から、民族間の対立感情も高まった。新たな民族間の緊張に対しては、シンカワンの華人市長(ハサン・カルマン)が「ティダユ」(ティオンホア=華人、ダヤク、ムラユの合成語)を提唱し、 3民族の協調に基づく各種の文化活動を実践したことが紹介されている。また、華人の宗教実践の組織化を巡っては、華人内部の勢力対立(儒教、道教、仏教)が政治抗争にもなったという。 本章の最後には、華人の民族性と日常生活の実相を描く3本の映画も紹介されている。
終章で各章の要点を纏めている。
以上が各章の要点である。まず本書の評価すべき貢献は、文書の史・資料が限られている「辺境」地域の研究にあって、独立後から現代(2000年代)まで当該地域の組織・事件・政治等に関わった多数の関係者へのインタビュー調査を実施し、多数の史実を発掘して地域史を再構成しようとしたことであろう。 著者の旺盛な現地調査と口述記録の収集は充分に評価されてよい。また、インドネシア国家に統合される西カリマンタンを、国家による一方的な統合ではなく、在地の側がどのように主体的に適応しようとしたのかという問題意識も評価できる。 主体的・能動的な地域世界の動向を捉えて一国史・国民史に偏った歴史像を再構成する視点、これは多民族・多言語・多宗教から成るインドネシアの国民国家の形成如何を考える上でも肝要な視点である。
しかし、インドネシア国家の統合政策に対する西カリマンタン華人社会の対応=適応を、筆者は総体としてどのように評価しているのか、結論とも言うべきこの点が必ずしも明解とは言えない。 その原因は、そもそも西カリマンタン華人の自律的社会とはどのような社会なのか、それがインドネシア国家に統合される過程でどのように変容したのか、「辺境ナショナリズム」とは如何なる内実のものか、またその担い手は誰なのか、 国家主導のナショナリズムと「辺境のナショナリズム」との異同は何か、これらの諸点が体系的に説明されていないからではなかろうか。また、西カリマンタン華人の民族意識に関して言えば、華人の組織指導者や政治家が「自分たちは華人であり、 インドネシア人でもある」と声高に主張したとしても、華人一般の意識にそれがどの程度浸透していると言えるのか、当該地域の民族間の確執が依然として根強いとすれば、はたして「華人性」は「インドネシア性」と共存できるのだろうか、 これらの疑問点はなお払拭できない。



※山口裕子・金子正徳・津田浩司(編著)『「国家英雄」が映すインドネシア』木犀社、2017年3月
インドネシアの国家英雄制度は、スカルノ初代大統領によって創設され、民主化後の現在も、世界的に見て類例がないほど多数の英雄を毎年認定している。英雄たちは、出身地の公共施設や主要幹線道路の名前に採用されるとともに、 中央レベルでは国家英雄を総覧した様々な『英雄百科事典』が毎年刊行(更新)される。この異常とも言える国家英雄制度の今日的意味を問うているのが本書であり、人類学者を中心とした論文集である。
まず序「英雄大国インドネシア」(山口裕子・金子正徳・津田浩司)では、国家英雄制度の概要と本書の狙いが編者によって示されている。同制度は1957年にスカルノによって創設され、スカルノ期〜スハルト期を通して国民統合の象徴的手段とされた。 英雄は、大統領が授与する最高位の称号である。スカルノ・スハルトの両政権期は、独立闘争や国家建設の功績者がトップダウンで英雄認定されたが、民主化と地方分権の時代に入ると地方民族集団が候補者の認定を目指す英雄推戴運動を活発化させ、 これを国家が最終的に認定するという、いわばボトムアップ型に変容している。現在も毎年数名ずつ各地から英雄が誕生しており、2016年時点で英雄の総数は169人(民主化後65人)、11月10日「英雄の日」には新英雄を顕彰する式典が催される。 しかし、近年認定される英雄は、全国的には無名で、出身地方でのみ知られる人物も多いという。
編者らは、こうした制度変容にかかわらず、国家英雄制度がいまも国民統合・ナショナリズムの国家装置として機能していると見ているようである。本書の意図としては、「独立宣言から70年余りを経て成熟期を迎えた多民族国家における国家と諸集団間のダイナミックで多元的な歴史的関係に迫るための参照枠組みを提示することにある」としている。
第T章「未完のファミリー・アルバムー東南スラウェシ州の、ふたつの英雄推戴運動」(山口裕子)は、国家英雄が1人も認定されていない東南スラウェシ州において、スハルト政権末期から始まり、2005年頃から2つの主要民族(トラキ人とブトン人)に分裂して継続している同州の英雄推戴運動を取り上げている。 候補者がそれぞれの民族を代表して推戴されるに至った運動の経緯が詳述されている(本書出版時点では、どちらもまだ認定されていない)。本章の筆者によれば、英雄推戴運動は、居並ぶ国家英雄の間に地元の英雄を並列させたいという願望が最大の目的であり、 地方社会の民族集団にとって政治的目的(地方振興等)達成の手段である以上に、制度の持つ独特の求心力があるという。同時にそれは中央政府への忠誠をめぐる地方間競争ともなっており、中央による「再集権化」という側面を併せ持つと見ている。
第U章「新たな英雄が生まれるときー国家英雄制度と西ティモールの現在」(森田良成)では、東ヌサ・トゥンガラ州西ティモールにおいて、知識人たちが作り上げる英雄像と農村住民の口伝との乖離に注目している。 英雄不在とされてきた東ヌサ・トゥンガラ州でも、英雄の存在を主張する地元出身の知識人による推戴運動が近年起こり、それは同州の周辺性を打破しようとの狙いがある。運動は、当地の多民族の中でも後進とされるティモール人とその王国(推戴の対象はオランダ支配に抵抗した西ティモール・ソンバイ国の国王)の再評価という意味も持っている。 一方、村落レベルの口頭伝承では、キリスト教徒であるティモール人は、聖書の記述と太平洋戦争の記憶を融合させて、ティモール人と日本人が兄弟だと語る。本章の筆者は、英雄推戴運動では、英雄を中心として国家公認の歴史が固定化されていくが、 それは地方の個性に根ざした歴史のダイナミズムを削ぎ落とすことになるという。
第V章「民族集団のしがらみを超えてーランプンにおける地域称号制度と地域社会の課題」(金子正徳)は、スマトラ・ランプン州における独自の地域称号制度である地域英雄・地域要人の認定を検討している。 同州は多民族から成るが、国内移民が多数派という地域特性がある。地域称号制度は、地域社会統合のツールとして、特定の民族集団に限定されない人選で、地域社会に貢献した文民(教育・行政・芸術・スポーツなど諸分野)も多数認定されており、 2012年の制度創設以来その数は2016年までに56名に達する(地域要人は存命中でも可)。本章の筆者によれば、国家英雄は反植民地主義や建国に貢献した人物を顕彰し、ナショナリズムの歴史に地方を包摂する意図をもつが、ランプン州のように社会分野の貢献が重視されれば、地方レベルから国家英雄制度の再考を促す契機にもなるという。 ただし、国家英雄制度との連続面も看取され、地域英雄の認定者が国家英雄の候補者に推薦されるケースもあり、この傾向が強まると抵抗史・独立史に貢献した人物が優先されることなる。多様な民族集団の帰属の枠組みを超えた社会統合のあり方が問われていると言えよう。
第W章「「創られた英雄」とそのゆくえースハルトと1949年3月1日の総攻撃」(横山豪志)は、スハルト政権期にスハルトの「英雄的行為」として称賛された1949年3月1日の総攻撃の歴史的評価を追っている。総攻撃とは、1949年にオランダ占領下のジョクジャカルタへの共和国軍の侵攻のことである。 スハルト政権期には、スハルトが総攻撃の発案者とされ、マスメディアなどを通してその歴史的評価が高められた。そこには、スハルトを独立革命の英雄とする意図が強く働いていた(スハルトの国家英雄認定については、現在も栄典審議会で審査中)。 ところが民主化後は、多くの識者によってスハルト発案説が否定され、ジョクジャのスルタン(9世)発案説が有力となっている。本章の筆者は、総攻撃評価の歴史的変化から読み取るべき教訓として、今日の国家英雄推戴運動が、「歴史の掘り起こし」の名の下に、 (スハルト発案説のような)「歴史の捏造」に陥ってはならないとしている。
第X章「偉大なるインドネシアという理想―ムハマッド・ヤミン、タラウィの村からジャワの宮廷まで」(ファジャール・イブヌ・トゥファイル)は、独立戦争期の中心的人物の1人であるムハマッド・ヤミンの思想形成に焦点を当てている。 ヤミンは、独立後の政府の要職を歴任し、1973年に国家英雄に認定されている。筆者によれば、ヤミンはインドネシアに固有の文化的規範に深く根ざした近代国家の建設を目指していたという。単なるナショナリストとして描くのではなく、 生涯を通じて培われたイデオロギー、規範意識、生活様式などの多様体として評価すべきであり、具体的には西スマトラでの幼年期体験、ジャワ文化、西洋文化、法学、神智学などの多面的な経験の融合がその思想全体を形作ったとみている。 これに対してインドネシアの国家英雄は、独立闘争・国家建設に貢献したナショナリストとして、その一面のみが強調され、当人の人物像全体が正当に捉えられないという。
第Y章「「歴史をまっすぐに正す」ことを求めてー国家英雄制度をとおした、ある歴史家の挑戦」(津田浩司)は、ポスト・スハルト期に入って硬直化し陳腐化しつつある国家英雄の人物像に対して、英雄概念の拡張を目指す歴史家アスヴィ・ワルマン・アダム(1954年生、西スマトラ・ミナンカバウ人)の挑戦を紹介している。 アスヴィは、華人系から初の国家英雄認定者を出そうという運動を2000年代初頭から展開した。華人は、スハルト期に法的・文化的に厳しく差別され、歴史叙述からも排除されていた。アスヴィは、退役海軍少将ジョン・リーを推し、華人団体の後援もあってリーは2009年出身地北スラウェシ州の英雄に認定された。 アスヴィの狙いは、単に華人を国家英雄に認知させるだけでなく、スハルト期の歪められたナショナル・ヒストリー(国軍中心史観)を正すことであり、それは国家英雄制度を利用した歴史記述の見直しでもあった。 軍人・政治家中心の国家英雄制度を拡張して、労働界・学芸・スポーツ・人権運動などの諸分野から多様性・多声性を反映させるべきとの主張を続けている。本章の筆者は、アスヴィの活動を評価しつつ、英雄制度を利用した歴史の再解釈の限界として、 人々の生活史に根ざした多義的な歴史叙述は捨象されてしまうと指摘している。
第Z章「「国家英雄」以前―「祖国」の創出と名づけをめぐって」(加藤剛)は、植民地期に刊行されたパンフレット・辞典・定期刊行物・詩や出版事業・民族団体の活動などの検討を通して、東インドの「原住民」がオランダ植民地支配の領域を「インドネシア」「祖国」と認識するに至るまでを考証している。 そして、国家英雄制度がいまも英雄を大量生産し続けているのは、多民族・多言語・多宗教の広大な群島から成るインドネシアの国家統一・国民統合という難題ゆえであり、同制度は、民族闘争の事績を通して国家・領土を空間的・時間的につなぐ政治的工夫であるという。 今後は、民主化後の行政単位の分立が進む中で、英雄推戴の主体が州から県・市レベルに下れば、民族闘争史の英雄という基準で英雄認定する現行制度は存続が難しくなるとみている。
以上が本書の要点である。編者たちは、国家英雄制度が、民主化後に地方からのボトムアップという制度変容を伴いながら 、しかし歴史上の抵抗運動・独立運動という英雄認定の国家基準を維持することで、今も国家統合の装置として機能しているとみているようである。 同時に、本書の随所で英雄制度を通して歴史および個人を一面的なナショナリズムに包摂していくという、制度のもつ問題点・限界も指摘しており、この点は評者も首肯できるところである。
最後に、評者の読後感を2点指摘しておきたい。ひとつは、過去の英雄認定者に関して、個別事例だけではなく、全体を俯瞰できるようなデータ分析があれば、今後の国家英雄制度のあり方を展望するうえで有益であろうと思われたことである。 本書には169人の認定者(2016年時点)の氏名・認定年・出身州などの一覧表は示されているが、各人の詳しい経歴や認定理由などの分類に基づくマクロの動向分析はみられない。特に、制度がボトムアップ型に変容している民主化後の認定者について、 全体的な動向分析があれば、今後の国家英雄制度のあり方を考える素材となったであろう。
もう一点、多民族国家インドネシアの国家統一・国民統合という観点から言えば、以下の点にも留意すべきであろうと思われる。つまり、国家英雄制度は中央集権と地方分権の権力バランスをみる一側面に過ぎないという点である。 各地における英雄推戴運動の活発化という事態をみて、国家統一・国民統合が民主化後も進展ないしは機能していると評価するとすれば、それは早計と言わざるを得ない。同制度とは異なる側面で、地域主義が中央対地方の権力バランスを変えていく可能性も十分に考えられるからである。



※山口元樹『インドネシアのイスラーム改革主義運動』慶応義塾大学出版会、2018年
本書は、植民地期から戦後にかけて民族的にはマイノリティであったアラブ人コミュニティの中心的組織であるイルシャードに焦点を当て、インドネシアのアラブ人たちが現地社会に統合されていくプロセスを描こうとしている。
アラブ人のインドネシア群島への進出と移住は、中国人と同様に歴史と共に古いといわれるが、とくに近世の「交易の時代」時代に増加している。アラブ人は、ペルシャ人やインド人とともにダウ船によってムスリム商人として東南アジアに来航し、 香辛料を中心とするアジア産品の交易に従事した。獲得したアジア産品は、アラビア半島から地中海を経てヨーロッパに連なる交易ルートで取引された。しかもムスリム商人は、交易とともにイスラーム教を東南アジア(特に島嶼部)にもたらし、 交易拠点を中心に現地の文化変容にも大きな影響を与えている。インドネシアに定住したアラブ人は、植民地支配下では、中国人とともに「東洋外国人」として民族分断支配の対象となり、現地人(プリブミ)とは異なる法規制の下に置かれていた。
19世紀以降に移住したアラブ人たちのなかでは、アラビア半島のハドラマウトからの移住者(「ハドラミー」)が増加し、彼らがイスラーム改革主義運動の中心的担い手となった。イスラーム改革主義運動は、オスマン帝国末期の19世紀後半からアラブ世界で活発となっており、 中東アラブ世界との緊密なネットワークを保持していたハドラミーにも大きな影響を与えている。イスラーム改革主義は、イスラームの純化・正当化、理性の重視、近代科学との共存を重視し、旧来の階層化されたムスリム社会を否定してムスリムの平等性を主張する。 以上を念頭において、次に本書の要点を略述しよう。
筆者は序章「問題の所在」で2つの課題を設定しており、第1は、20世紀初頭に東インド(インドネシア)で誕生したイスラーム改革主義団体であるイルシャードについて、その改革主義の性質と意義を明らかにすること、 第2に、イルシャードの分析を通して、アラブ人コミュニティがインドネシア社会に統合されていく過程と要因を示すこととしている。
第1章「イスラーム改革主義運動の源流」では、中東アラブにおけるイスラーム改革主義と教育改革運動の動向、およびイルシャードの設立者・指導者であるスールカティーの経歴などが示され、 第2章「イスラーム改革主義運動の始まり」では、アラブ人コミュニティの中での改革主義の広がりとともに、コミュニティ内におけるアラウィー(ムハンマドの子孫の一族)とイルシャーディー(イルシャード会員・支持者)との対立も顕在化したという。 第3章「インドネシア・ナショナリズムの形成」では、20世紀初頭から1920年代にかけて起こったイスラーム民族運動および植民地政庁の公教育政策の展開と、スールカティーの教育活動が論じられ、イルシャードのエリート養成の公教育への対応やプリブミ・ムスリムの受け入れの進展などが示されている。 第4章「アラウィー・イルシャーディー論争の収束」では、1930年代に加熱した両派の対立について、中東アラブの改革主義者の仲介もあり、結局、改革主義者たちの主張する「平等主義」がイルシャードの中で主流となり、論争は30年代前半には下火となったという。
以上の第1章〜第4章までの叙述では、アラブ人コミュニティが現地に統合されていく過程で、初期のイルシャードの改革主義の果たした役割が重視されている。
第5章「ハドラマウトかインドネシアか」では、30年代後半以降のアラブ人コミュニティにおける帰属意識の問題が分析される。イルシャードは本来、トトックのアラブ人を中心にハドラミー(ハドラマウトを祖国とする)としての意識を持つ団体であった。 これに対して1934年に設立されたインドネシア・アラブ協会は、プラナカンのアラブ人のみの団体であり、インドネシアを祖国としてプリブミのナショナリズムへの連帯を明確にした。こうした動きにスールカティーも「現地志向」を強め、 1939年のイルシャード25周年記念大会では、「ハドラマウト志向」を否定し、プリブミ社会への同化を選択した。しかし、ハドラミーの中には、アラビア語を媒介とするアラブ人性を保持しようとの主張も共存した。
第6章「独立後のインドネシア社会への統合」では、戦時期(日本軍政期)のアラブ人たちはハドラマウトとの関係が断絶し、独立後はアラブ人の大多数がインドネシア国籍を取得したことで、イルシャードも現地社会への統合が決定的になったという。 1950年代イルシャードは改革派イスラーム政党のマシュミ党に接近し、教育方針ではイルシャード学校が一般学校系統に属し、学校言語もアラビア語からインドネシア語に変更された。こうして、イルシャードの現地社会への統合は1950年代に完成をみたという。 そして現在のイルシャードも、公には「アラブ人性」「ハドミラー性」を否定し、インドネシアのイスラーム組織となっている。しかし、協会内の要職はなおハドラミーが独占していることも指摘されており、完全に「アラブ人性」が消滅したわけでない。
終章では、始めに設定された課題に対して、イルシャード内のイスラーム改革主義が組織結成に不可欠であったこと、アラブ人コミュニティが現地社会に統合される要因として、イルシャード内の改革主義、特にスールカティーの平等主義が重要であったこと、 教育活動でもアラブ人とプリブミ・ムスリムの対等な協力関係が強調され、イスラームが紐帯となってアラブ人とプリブミの協力関係が可能になったとしている。
このように本書では、戦前から戦後にかけてのイルシャードの動向を追うことで、アラブ人コミュニティの現地社会への統合が主張されている。本書は、アラビア語、オランダ語、インドネシア語の史料を渉猟し、イルシャードの改革主義運動の内実を克明に跡づけたことは評価すべきであろう。 しかし同時に、以下のような疑問点も指摘しておきたい。
第一に、本書はアラブ人社会の歴史分析をイルシャードによって代表させているが、はたしてイルシャードとアラブ人コミュニティを同一視してよいのかという問題である。イルシャードはトトック・アラブ人の組織であるが、20世紀初頭にはプラナカン・アラブ人がアラブ人コミュニティの90%に達しており、 両者の動向分析にはその異同にも注意を払うべきではないかと思われる。第二に、筆者は1950年代にイルシャードの現地社会への統合が完成したとみているが、同時にイルシャード内にはアラブ人性とアラビア語に固執する人々がいたことも指摘されており、 現在でも協会の要職はなおハドラミーが独占しているという。だとすれば、アラブ人とプリブミ・ムスリムの統合が完成したという評価はやや早計ではないだろうか。第三に、アラブ人の現地社会への同化過程において、 プリブミ・ムスリムと共通のイスラームが統合原理として機能したことが重要視されているが、イスラーム勢力の対立構図(改革派VS保守派、宗派間対立)のなかでアラブ人たちがどう対応してきたのかも判然としない。 昨今のインドネシアにおける特定のイスラーム勢力と結びついた地域主義の台頭や、選挙(特に大統領選挙)のたびに顕在化するイスラーム勢力内部の対立、国際的な汎イスラーム主義などをみると、 イスラームがどこまで国家統合の原理として機能していると言えるのか、なお検討の余地があるように思われる。



※富永泰代『小さな学校―カルティニによるオランダ語書簡集研究』京都大学学術出版会、2019年。
本書の研究対象は、近代インドネシアの民族運動と女性教育の先駆者とされてきたジャワ人女性カルティニである(Reden Adjeng Kartini、1879〜1904、中部ジャワ・ジュパラ県の現地人上級貴族の子女、父親は県長)。 カルティニは、1964年にインドネシア共和国国家独立英雄に指名され、1985年にはその肖像が紙幣に採用されており、誕生日4月21日は現在でも「カルティニの日」として祝賀行事が催されている。インドネシア女性史を語るうえでは欠かせない人物である。
本書は、既存のカルティニ像を新資料の解釈によって大きく変えようとの狙いがある。従来のカルティニ研究では、オランダ植民地政庁の教育・宗教・産業局長官アベンダノン(J.H.Abendanon、1856〜1925)が1911年に編集した書簡集(『闇を越えて光へ、Door Duisternis tot Licht』、以下1911年版と略記)を基礎資料としてきたが、 本書は1987年にオランダ王立言語・地理・民族学研究所(KITLV)が新たに編集した書簡集(以下1987年版と略記)に注目する。著者によれば、1987年版がカルティニ書簡(105通)を網羅しているのに対して、1911年版は全書簡の3割程度の編集であり、 編者アベンダノンが自己の目的(倫理政策の推進)に合致するように取捨選択した恣意的な編集になっているという。著者は本書の目的として、「1911年版すなわちオランダの倫理政策の文脈によるカルティニ像の修正を図り、 さらに「インドネシア民族主義の先駆者」に回収されない新たなカルティニ像を提示する。」(p.25)としている。本書タイトルの「小さな学校」とは、カルティニが理想とした女子教育の学校のことである。まず、各章の要点を簡単にみておく。
序章「Door Duisternis tot LichtとBrieven」では、1911年版書簡集の意図的な編集によって作り出された「カルティニの虚像」に対して、1987年版書簡集(Brieven)を研究する意義が強調される。 1987年版を用いた先行研究でも1911年版を批判の対象としていないという共通点があり、その背景にはカルティニを世に知らしめたアベンダノンの貢献への称賛があるという。
第1章「背景―鎖されたジャワ社会の下で」では、時代背景(20世紀転換期)としてオランダ植民地時代の官僚制度と教育制度の概要、交通・通信の発展を説明し、カルティニが植民地行政機構に組み込まれた現地人官吏の娘という位置にあったことが示される。
第2章「カルティニの生涯」は、カルティニが受けた教育、12歳からの「閉居」生活、家父長制下の家族関係、オランダ人官僚やその家族との交流、アベンダノン夫妻との出会いと文通の経緯、オランダ本国有力者との交流、オランダ留学の断念と結婚など、 カルティニの25年の短い生涯の解説である。
第3章「カルティニの読書」では、文通相手であるオランダおよびジャワ在住のオランダ人から送られたオランダ語雑誌・単行本、それに定期購読のオランダ語新聞などの読書リストが作成されており、カルティニの幅広い知識の源泉が示されている。 カルティニが共感したオランダ人女流作家たちは、当時のヨーロッパにおける女性解放運動、社会福祉活動、平和運動の先駆者たちであった。またカルティニは、定期購読したオランダ語女性誌に連載記事や詩作を寄稿できるほどの語学力を有していた。
第4章「カルティニの社会活動―ジュパラの木彫工芸活動」では、1911年版書簡集ではほとんど取り上げられていないカルティニの社会活動に注目しており、筆者が最も重視するカルティニ像の側面である。 ジュパラはジャワを代表する木彫工芸品の生産地であり、カルティニは、修得したオランダ語を武器として、ジャワ在住のオランダ人やオランダ本国の関係団体を相手に、木彫製品の営業活動(注文、納品、請求など)や会計管理を行い、 さらに職人たちとの間での生産調整、新製品のデザイン開発、ジャワ工芸品展覧会の推進活動にまで携わっていた。カルティニの地場産業振興への貢献が高く評価されている。
第5章「失われたカルティニの声を求めてーカルティニの理想と現実」では、カルティニが日常の身辺で取材した女性たち(ジャワ人上級官吏の子女)の生の声が紹介されており、当時の一夫多妻制や強制結婚に従わざるを得ない女性の苦悩が示されている。 こうした家父長制下での女性の隷属的地位を問題視した書簡も、1911年版ではほとんど削除された。1911年版が女子教育問題に偏重した書簡集となっているのは、「倫理派」のアベンダノンが、「ヨーロッパの光による文明化」=西洋式教育が浸透すれば社会問題は解決するという立場にあり、 植民地支配を正当化する論拠としてカルティニ書簡を利用したためであるという。カルティニが構想した女子教育はオランダ語による中等レベルの職業教育であったが、実際にプパティ(県長)公邸で開設できた女子校(私塾)は、ジャワ語による初頭教育であった。
第6章「「光と闇」をめぐってー1911年版書名と編集の考察」では、アベンダノン編の1911年版によって導きだされた「光と闇」とカルティニが意図した「光(夢)と闇(現実)」には大きな乖離があること、1911年版でアベンダノンが書簡集を『闇を越えて光へ』と命名した意図と編集方法、 結婚後もラデン・アジュン・カルティニ(「ラデン・アジュン」はジャワ貴族で未婚女性の称号)という呼称が定着した経緯やインドネシア語訳版の問題点などが解説されている。
以上が各章の要点である。まず本書の評価すべき点は、1987年版書簡集の丹念な検討を通して、オランダ語修得に基づく幅広い教養(特に女性の自立と尊厳への洞察)、社会福祉活動と地場産業振興、ジャワ社会の因習への批判的考察など、 多面的なカルティニ像が提示されていることであり、この点では著者の目的はほぼ達せられていると言えよう。
しかし、以下のような難点も指摘しておきたい。ひとつは、本書の各章が既発表論文から構成されているためか、各章の論点に重複箇所があり、大量の資料引用と相まって叙述がやや冗長になっていることである。 章別構成と論点整理に一段の工夫がほしかった。カルティニ像の評価に関しては、カルティニに寄り添う筆者の姿勢が強すぎるためであろうか、過剰な思い込みとも取れる指摘が散見される。例えば、本書を締めくくる「結語」の中で、 「カルティニは貧困を社会の問題と捉え、社会的に弱い立場にある人々に寄り添いその声を代弁した。」(p.349)、「ジェンダー・年齢・身分・文化を越えた新たな地平を切り開くことを使命とした。」(p.350)、 「カルティニの普遍志向・地球志向はすでに民族の枠組みを、そして東インドをはるかに越えるものになっていた。」(p.351)などの指摘である。これらの指摘は、いずれもカルティニ書簡の断片的な記述に基づいて筆者が解釈したものであるが、 本文の引用資料を読む限り、カルティニ像の性格づけとして十分な実証を伴うものとは言えず、やや過大に評価されているように思われる。カルティニが果たした革新的な役割と同時に、時代に制約された限界性についての客観的考察も必要ではなかろうか。



※倉沢愛子『インドネシア大虐殺―二つのクーデターと史上最大級の惨劇』中公新書、2020年
1965年9月30日夜半、インドネシアの首都ジャカルタにおいて、ウントゥン陸軍中佐率いるスカルノ大統領親衛隊(革命評議会)が7人の陸軍将軍を殺害したことに始まる「9・30事件」、翌年3月11日の陸軍スハルト派が権力奪取した「3・11政変」=無血クーデター、これが本書の言う「二つのクーデター」である。 「9・30事件」後、陸軍主流(スハルト派)に巧みに煽動されて、反共主義者による一方的なインドネシア共産党(PKI)の党員・シンパ・関係者の大量虐殺が全国各地で発生した。犠牲者は少なくとも50万人、一説には200万人とも言われる。 しかし、冷戦時代の真っ只中にあって、大虐殺事件に対する西側陣営からの国際的批判はほとんどなく、社会主義陣営も中ソ対立と中国の文化大革命の混乱のため事件にはほとんど関与しなかった。 そのためか、大虐殺について、専門家・関係者以外には、いまだにその実態がほとんど知られていない。本書は、この1960年代半ばの政変に焦点を当てて、大虐殺の経緯と実相を明らかにしようとしている。まず、本書の構成を簡単に紹介しよう。
序章「事件前夜のインドネシア」では、初代大統領スカルノが、1950年代後半から60年代前半にかけて、強硬な脱植民地政策で欧米諸国と対立し、外敵を作ることで多民族国家の統合を図ろうとしたこと、 ハイパーインフレによる経済的混乱で国民の窮乏は深刻であったこと、スカルノ体制の一翼を担ったPKIが、旧ソ連の平和共存路線から中国の武装闘争路線への転換を図っていたこと、などが示されている。
第T章「9・30事件―謎に包まれたクーデター」では、事件の経緯、およびPKI系と反PKI系の各種団体の動向をみた上で、事件の黒幕は誰なのかを問い、PKI黒幕説、陸軍内紛説、スハルト陰謀説、スカルノ首謀説、西側諜報機関(CIAなど)陰謀説などを紹介している。 また、事件後、スカルノと国軍主流派(スハルト=ナスティオン)の権力闘争を経て、スカルノからスハルトへパワーバランスが傾く経緯を示している。
第U章「大虐殺―共産主義者の一掃」では、事件後、スハルト派が実施した官僚や国軍内部の「スクリーニング」(思想や家族関係のチェック)、事件関与者の矯正のための教化プログラム、PKIと関係団体メンバーの逮捕・抑留、 それらと同時進行した全国各地での虐殺の実態が紹介されている。虐殺の背後には、民間人による殺害に見せかけた国軍による煽動や誘導、殺害訓練などが指摘されている。
第V章「3・11政変―「新体制」の確立」では、スカルノからスハルトへの権力移譲のプロセスを追っている。1966年3月11日、スカルノが治安回復の権限をスハルトに移譲する文書に署名(スープルマル)したことによって、スハルトの権力掌握が決定的となった。 スカルノは名目的大統領のまま実権を失い、スハルトによる権力奪取のプロセスを経て、67年3月7日にスカルノが大統領退陣、68年3月12日スハルトが大統領に就任する。 この章では、「3・11政変」後に日本がインドネシア援助政策を本格化させ、国際的な援助国会議を主導したことにも注目している。
第W章「敗者たちのその後」では、PKI関係者とみなされた政治犯やその家族が置かれた職業的差別の実態が示され、元PKI関係者の逃亡記録なども紹介されている。また、事件当時、海外(日本や社会主義諸国)にいたインドネシア亡命者たちのその後の動静なども紹介している。
終章「スハルト体制の崩壊と和解への道」では、1998年5月のスハルト体制崩壊後、「9・30事件」政治犯の釈放、海外亡命者の帰国などは実現したものの、大虐殺の検証、犠牲者の名誉回復はまだ充分には進んでいないことが指摘されている。
以上、各章の要点をまとめた。筆者の本書に込めたメッセージを読み取るとすれば、インドネシアで起こった未曾有の大虐殺を、日本人に再認識してもらいたいとの思いであろう。 つまり、未曾有の惨劇の果てに成立したスハルト開発独裁政権の下で、日本の大規模なODA・民間投資(長期に亘り日本の最大の援助・投資国であった)が進み、それが日本の高度成長のエンジンとなって莫大な利益を享受してきた、ということである。
次に本書の評価すべき点と評者のコメントをまとめておきたい。 本書の特徴は、第1に、インドネシアの関係省庁や関係国で近年解禁された公文書・関係資料を渉猟して、「9・30事件」に関する新たな情報を盛り込んでいることである。例えば、事件後のスカルノの動静、スカルノと国軍主流派とのパワーバランスの変化、スハルトが実施した官僚・軍人への「スクリーニング」などである。 第2に、著者による事件関係者へのインタビュー調査によって、関係者の生の声が収録されていることである。虐殺に関与した人物の証言や、PKI関係者の逃亡記録などはオーラル・ヒストリーとして興味深い。 一方で、次のような問題点も指摘しておきたい。「9・30事件」の直接的要因については、本書で多くの説が並記されているが、著者がどの説を支持し、この事件をどう見ているのか、結局のところ判然としない。 これは「9・30事件」の歴史的位置づけにも関わる論点である。著者は、スカルノ体制からスハルト体制への移行をどのように捉えているのか、必ずしも明確には述べていない。 事件の関係者を中心に、当該期の政治的プロセスは丹念に追っているが、権力構造の把握が弱いために表層的な叙述に終わっているのではなかろうか。
評者は、拙著でこれまで繰り返し指摘してきたように、スカルノ体制からスハルト体制への移行は、断絶面よりも連続面を重視すべきとの立場である。 体制移行の契機は「9・30事件」であるが、事件について評者は、陸軍主流派の反スカルノ勢力に対する陸軍反主流派(親スカルノ派)のウントゥン・グループによる予防的クーデターがきっかけであり、 これをスハルトが巧みに利用して権力奪取し、西側陣営の支持を得て強権的な軍部独裁政権を築いたと見ている。 スカルノ体制については、スカルノ個人の権力基盤が極めて脆弱であるため、指導民主制期に入ると陸軍主流派が経済的(接収外国企業の管理)にも政治的(軍の二重機能)にも権力構造に深くくい込んでいたと考えられる。 スカルノの国際舞台での過激な発言に惑わされて、スカルノを急進的民族主義者とみるのは誤りであり、国内の権力基盤からすれば、むしろその保守性にこそ注目すべきである。 両体制の連続性に着目すると、日本政府がスカルノ期の戦後賠償からスハルト期のODA開発援助まで、一貫してインドネシアでの権益を維持してきたことも容易に説明できよう(以上の諸点について詳しくは、拙著『概説インドネシア経済史』(有斐閣、2002年)、および本ホームページのトピックス欄を参照されたい)。



※水野広祐『民主化と労使関係―インドネシアのムシャワラー労使紛争処理と行動主義の源流』京都大学学術出版会、2020年
本書は、インドネシアの植民地期からスハルト体制崩壊後の民主化・改革期までの労使関係史・労働運動史を、「合議=ムシャワラー」・「全員一致=ムファカット」、労使紛争処理、行動主義などをキーワードにして、長期のパースペクティブで概観したものである。 特に、民主化後の労使関係と労使紛争処理の分析に重点が置かれている。著者によれば本書の主要な目的は、「労使関係や労使紛争処理過程の実際がスハルト期から民主化・改革後の今日にどのように変化したのか、「合議」「全員一致」「法の支配」、 労働者保護と労働三権の確立、法の執行、さらに労働運動や経営者に動きに注目しながら明らかにしようとするものである。」(pp.9-10)という。具体的な分析課題として「序章」で以下のような10項目を提起している。 @改革民主化後インドネシアの労使紛争処理制度は法の支配に基づくのか、「合議」「全員一致」に基づくのか。A改革民主化後の新労使紛争処理制度は国家介入型か、労使による問題解決型か。B民主化をもたらした外部要因と内部要因はどのようなものであろうか。 C民主化以前の労働運動や企業の対応は民主化後の労使関係をどう規定したのであろうか。D民主化は労働三権を保障したか。E労働者保護制度の特質は何か。F集団的労働関係法の特質は何か。Gインドネシアの労使関係安定化の道はあるか。 Hインドネシアの労働運動は弱体か。I労働運動の行動主義、あるいはラディカリズムはどこから生まれているか。
次に本書の章別構成を示しておく。
序章「「合議」と「全員一致」原則の現実と行方」
第1章「植民地期の労働問題と労働法」
第2章「独立後スカルノ期の労働法制と労使紛争処理」
第3章「スハルト政権下の労働法制と労使紛争処理」
第4章「改革期の労働政策と労使組織」
第5章「改革期初期の労使紛争処理事例―激烈な紛争と大量解雇」
第6章「安定的労使関係の創出事例」
第7章「2003年労働力に関する法律第13号」
第8章「インドネシアの労使紛争処理制度改革―2004年労使紛争処理に関する法律第2号を中心に」
第9章「労使関係裁判所制度化下の労使紛争処理」
第10章「グルブック・バブリク「工場捜査」労働攻勢とアウトソーシングおよび有期労働契約問題」
第11章「労働運動の発展と労使紛争処理制度」
「終章」
以下ではまず、本書のキーワードである「合議(ムシャワラー)」・「全員一致(ムファカット)」、労使紛争処理、行動主義などの記述に注目しながら本書の要点を整理し、最後に評者のコメントを付したい。
「序章」では問題関心と先行研究を整理し、上述の具体的な10項目の分析課題を示している。 第1章〜第3章が民主化・改革期以前の歴史的考察である。植民地期(第1章)のオランダ政庁は労使紛争処理を制度化する構想はあったものの、労働運動の高揚(1910年代〜20年代)に直面して抑圧的姿勢を取って実現せず、 一連の労働契約法も経営者保護的な性格が強かった。一方で労組による組織的運動とともに未組織の自然発生的ストも常に見られ、労働者の行動主義は植民地期にも一貫して存在した。 戦後のスカルノ期(第2章)では、労使紛争処理制度や労使関係に政府の介入が深まり、「法の支配」と言うよりも関係者の徹底した議論や根回しによって解決を図る「合議」が制度化した。 1950年代の政党色の強い労働運動に対しては、軍による労使関係への積極的介入も特徴的であった(特に「指導民主制期」)。スハルト期(第3章)に入ると、左派系の労組が徹底的に押さえ込まれ、 政府(労働力大臣)によるパンチャシラ労使関係の指導下で、労働問題への軍の関与が合法化された。それまでの労働紛争調整委員会中心の紛争処理から労使間の「合議」「全員一致」を強調して、労働力大臣が強権的に介入する紛争処理へと変質した。 行政も官製労組も労働運動を徹底的に封じ込めようとしたが、それでも国際的な批判を背景にして1980年代末以降は「最低賃金」違反に対するストは非合法でも容認され、労働運動は高揚した。
第4章以下がスハルト体制崩壊後改革期(1998年5月〜)の労働政策と労使関係を扱っている。まず第4章では民主化期の労働政策の改革、それに伴う労働組合の結成・再編の動向が事例を交えて解説され、 第5章と第6章では改革期初期の労使紛争処理の事例が紹介されている。第5章の2000年5月に始まる紛争事例(ジャカルタD社)では、2000年労働組合法(団結権の承認)が保証する法的システムが充分機能せず、会社は労組の存在を認めず、 労働力調停官の調停内容(「合議」の質)も貧弱であった。これに対して第6章の2003年の事例(ボゴール県F社)では、会社内で協調的競争関係にあった2つの労組が大多数の組合員の結束と交渉参加を図り、労組と会社の意思疎通のルール化を実現させ、 労使合意を生んだ。「法の支配」に基づく労使関係が困難でも安定的労使関係が成立した事例である。
改革期に成立した労働法では、「2000年労働組合に関する法律第21号」、「2003年労働力に関する法律第13号」、「2004年労使紛争処理に関する法律第2号」(労使関係訴訟法)がいわばインドネシアの労働3法であり、第7章が2003年法、第8章が2004年法の解説である。 2003年法では解雇やストライキに関する規定、アウトソーシング・有期契約労働制度等が盛り込まれ、「柔軟な雇用」や労働者派遣制度の導入などの問題が、その後の争議の争点となった。2004年法ではそれまでの労働紛争調整委員会(行政機関)が廃止され、 労働関係裁判所が設置されて(2007年に制度開始)、簡便で迅速、公正で安価な紛争処理を目指すこととなった。しかし、ストライキ禁止規定がないことや政府職員による強制調停制度が維持されたことなどの問題点も残った。
第9章と第10章は、労働関係裁判所が設置されて以降の労使紛争処理事例の分析である。第9章の事例分析からは、労使関係裁判所がストライキの合法性を狭く捉え、紛争の焦点を解雇の是非や解雇一時金等の給付額に集中させており、 これでは旧制度と大差ないことが示される。第10章では、2003年労働法で成立したアウトソーシング・有期労働契約に対する労働者側の対抗運動を取り上げる。2012年からブカシ県やカワラン県の工業団地で広がった労働者の企業に対する大規模な直接行動は、 グルブック・パブリクと呼ばれた。背景には、労働局や労働関係裁判所に対する労働者側の不信感があり、直接行動は警察への届け出だけで実施された。結局、労働関係裁判所の判断も解雇問題に集中し、アウトソーシング・有期労働契約などに関する労働者保護の観点は希薄であった。
第11章では民主化・改革後の労働運動の概要と労働監督制度・労使関係裁判所の現状(2010年代)が概観される。2007年発足の労使関係裁判所は、解雇問題と解雇一時金に議論を集中させる旧制度の労使紛争調整委員会と変わりがなく、 一方2010年代に入って高揚した組合運動は、国民皆医療保険、アウトソーシング、有期労働契約、最低賃金など、労働者の狭い利害を超えて社会問題に取り組む運動が進展したと評価される。 「終章」では、「序章」で示された10項目の個別課題に対応して、本書の結論が纏められている。ここでは本書の成果として特に重要と思われる論点に絞って結論を要約しておきたい(番号は上述の課題番号に対応)。
@民主化後の労使紛争処理制度に関しては、「法の支配」の場である労使関係裁判所の判断が、法理によってではなくムシャワラーのロジックに則っていた。今日のインドネシアの労使紛争処理制度とそれを取り巻く環境は、 「法の支配」を貫徹できる状況にはない。A新制度化での政府の労使紛争処理への関与は以前の制度に比べて相当低下したが、国家介入型から労使決定型への変化が認められる韓国などとは相当異なった結果であった。 BILOの指導下で2000年労働組合法が成立したと言う点で民主化の外的要因は明らかだが、法律の執行を促す労働運動が労働法・労使関係の民主化の内実を与えてきたという点では内部要因も重要である。D民主化後に労働三権を保障する法律や労使関係裁判所は実現したが、 その執行性は不十分であり、その不十分さを組合の行動主義と労使のパワーバランスに基づく合議が補った。G民主化後の労使関係が安定した紛争事例では、労使双方が強固な闘争的姿勢にありながら結果的に労使関係が安定する「闘争的安定」の状態であった。 2010年代に見たれた労働者の直接行動などは、多くの暴力を伴った「合議」「全員一致」のプロセスであり、「闘争的安定」に結果した。Iインドネシアの歴史と社会に根ざした行動主義に裏打ちされた「闘争的均衡」のプロセスこそが歴史的なムシャワラー・ムファカットであり、 このムシャワラー・ムファカットこそが労働者の闘いの手段であった。
以上が本文および結論の要約である。まず評価すべき本書の特徴は、19世紀の植民地期から現代(2010年代)まで長期のパースペクティブで、各時代の労働関連法と労働運動の特徴を詳細に記述しており、管見のかぎり日本だけでなく国際的にみても他に類例のないインドネシア労使関係史研究となっていることである。 特に重要な労働関係法はほとんど網羅されており、本書によってその詳細を知ることができる。また、歴史的に見ても抑圧的な労働行政と厳しい職場環境にあって果敢に立ち上がる労働者の運動(合法・非合法、組織・未組織を問わず)を、 歴史的に受け継がれてきた行動主義として評価しようとする筆者の姿勢は一貫している。
以上のような積極的貢献とともに、評者からの疑問点としてさしあたり以下の3点を指摘しておきたい。
第1に、「序章」で述べられている先行研究の整理に関連して、本書出版前におけるインドネシア労働問題の体系的研究として評者が最も高く評価するHadizの著書について(注1)、筆者はこれを悲観論とみていることである(p.12,14)。 しかし、Hadizの所論は1990年代までを対象とした研究であり、2000年代以降の労働運動の発展から翻ってHadizを批判的に見るのは正当な評価とは言えないように思われる。
第2に、労使紛争の事例分析が、本書では製造業の工場労働者の運動に限られていることである。評者が別の機会に1990年代の労働運動を調べたところでは、運動は工場のブルーカラー層に限らず、高学歴のサービス業ホワイトカラー層(銀行、ホテル、 学校、病院など)からインフォーマル・セクターの雑業的労働者(ミニバス、タクシーなど)にまで広範囲に拡大している(注2)。これは、1980年代後半以降の労働市場の変容に対応した労働力配置の変化に基づくものと考えられる。 特に労働力人口の中で構成的比重を増している「新中間層」=ホワイトカラー労働者について本書はほとんど視野に入っていないようであるが、労働市場論を踏まえない労働運動論は、労働運動の評価としても十分とは言えないであろう。
第3に、筆者が労使関係における「合議(ムシャワラー)」・「全員一致(ムファカット)」として高く評価する「闘争的均衡」(あるいは「闘争的安定」)についてである。これは本書全体の最終的な結論部分であり、最も重要な論点であろうと思われる。 筆者は、労使関係が安定化した事例では「闘争的均衡」に結果しているとし、労使が力の均衡状態にあることを「ムシャワラー」・「ムファカット」と呼んでいる。労働者側が使用者に十分対抗できるほどの闘争力を持つことが労使関係を安定化させる「闘争的均衡」であるとすれば、 それがなぜ「ムシャワラー」=「合議」なのであろうか。しかもそこには暴力を伴う「合議」「全員一致」まで含まれている。労働者・労組が強固な交渉力をもって経営側から要求を勝ち取ることを「合議」「全員一致」の行動と考えているようであるが、 どの程度の運動とどの程度の交渉力をもてばそれを「闘争的均衡」と呼ぶのかも判然としない。労働者側が交渉力を強化することが「ムシャワラー」・「ムファカット」だとすれば、しかも暴力を伴う闘争力まで含むとすれば、それは「ムシャワラー」・「ムファカット」の本来の意味から逸脱することにならないだろうか。 序章で示されている筆者の「ムシャワラー」・「ムファカット」の理解は、従来の一般的なそれから出ていないようである。もし労使間の「ムシャワラー」・「ムファカット」を筆者のように捉えるのであれば、「ムシャワラー」・「ムファカット」の概念を豊富化するための踏み込んだ分析と再定義が必要であろう。
(注)
(1)宮本謙介・書評「Vedi R. Hadiz, Workers and the State in New Order Indonesia, London: Routledge, 1997.」『アジア経済』40(1)、1999年1月。
(2)宮本謙介『開発と労働―スハルト体制期のインドネシア―』日本評論社、308頁、2001年12月。




※川村晃一(編)『2019年インドネシアの選挙―深まる社会の分断とジョコウィの再選』アジア経済研究所、2020年
インドネシアで5年ごとに実施される大統領選挙と議会選挙は、同国の民主主義や政治社会の変容を映す鏡であると言われる。編者によれば、本書の目的は、2019年大統領選挙・議会選挙からインドネシアの政治と民主主義の変化を読み解くこと、 およびジョコ・ウィドド(ジョコウィ)政権第1期(2014年−19年)の政治・経済・社会の変化と第2期の政治運営の展望を示すことであると言う。まず、各章の要点をまとめておこう。
序章「2019年選挙と第1期ジョコ・ウィドド政権が意味するもの」(川村晃一)では、2019年選挙の背景に、2017年ジャカルタ知事選挙を契機とするイスラーム保守派の攻勢があり、世俗VSイスラームという社会的亀裂が一層拡大していること、 大統領選挙では前回同様にジョコウィ対プラボウォの一騎打ちとなり、投票結果には大きな地域的偏差が見られたこと、同時にネットによるキャンペーンやビッグデータの活用など新たな特徴も現れていること、など選挙の概要が示されている。
第1部 2019年選挙の分析
第1章「2019年大統領選挙―社会の分断と投票行動の分極化」(川村晃一・東方孝之)は、有権者の大統領選の投票行動が、世俗対イスラームの社会的亀裂に影響されたのかという問題を、県・市レベルの投票結果の定量分析によって検討している。 分析結果によれば、ジョコウィ支持の非イスラーム系有権者が多数派の地域(中・東部ジャワ、東部インドネシア)とプラボウォ支持の保守派イスラームが多数派の地域(スマトラ、西ジャワ、スラウェシ南部)の対立構図が前回選挙以上に鮮明になっている。 それと同時に、イスラーム政党支持層の投票行動では、NU(ナフダトゥル・ウラマー、民族覚醒党を支持)とそれ以外の対立分断が明瞭になっており、ジョコウィがマアルフ・アミン(NU元総裁)を副大統領候補に据えてNUの取り込みを図ったことが大きな勝因になっている。 全体としてみれば、ジョコウィが予想以上に苦戦したのは、イスラーム保守派の勢力拡大が影響したと見られる。
第2章「イスラーム票の動員―ナフダトゥル・ウラマーの結束」(茅根由佳)は、大統領選挙においてジョコウィがイスラーム票を獲得する上で重要な役割を果たしたNU(ナフダトゥル・ウラマー)の動向分析である。 過去の大統領選挙においてNUが特定の候補者でまとまることはなかったが、今回はジョコウィ支持を打ち出し、これがNUの地盤であるジャワ中・東部でのジョコウィ圧勝という結果となった。 NUのジョコウィ支持一本化の背景には、2010年代のNU指導部がワヒド(アブドゥルラフマン・ワヒド、第4代大統領、元NU議長)の宗教多元主義を継承し、イスラーム保守派(ムスリムの利益優先)の政治的台頭への危機感から組織結束を図ったこと、 ジョコウィが2015年にUN総裁に就任したマアルフ・アミン(副大統領候補)の取り込みに成功したことが挙げられる。マアルフは、2015年にイスラーム主義の牙城と言われるMUI(インドネシア・ウラマー評議会)会長にも選出されており、2017年ジャカルタ知事選ではイスラーム保守派の行動を支持した人物である。 マアルフは、NU内ではワヒド派と距離を置いて、イデオロギーよりも政治的プラグマティズムと権力志向が強いという。以上のような本章の記述からすると、ジョコウィはNUの組織票動員には成功したものの、自らの政権基盤を脆弱にする不安定要素を抱え込んだとも言えよう。
第3章「ポスト・トゥルース時代におけるインドネシア政治の始まり―ビッグデータ,AI,そしてマイクロターゲティング」(岡本正明・亀田尭宙)では、2019年選挙の大きな変化として、オンラインでの選挙戦、ビッグデータ・AIの活用に注目している。 大統領選両陣営のサイバー・キャンペーンでは、プラボウォ陣営が一極集中的でトップダウン型であるのに対して、ジョコウィ陣営は多様なグループの緩やかなコーディネーションを特徴とした。また、ジョコウィ陣営では、オンライン選挙キャンペーンを実施したIT部隊によって政治的マイクロターゲティングの手法が導入されたことも特徴的であった。 同時にこうした動向は、ツイッターなどでのオンライン・キャンペーンによる敵攻撃、フェイク情報の大規模拡散など、社会全体の分断を深める要因ともなっている。
第4章「ジェンダーの政治と大統領選挙―分極化の犠牲となった性暴力排除法案」(見市建)では、大統領選挙の争点の一つとなった性暴力排除法案を取り上げ、その争点化の過程と背景にあるイスラミック・フェミニズムVSイスラーム主義反フェミニズムの構図を解説している。 性暴力排除法案は、フェミニズム活動家や超党派の女性議員を中心に2016年に国会に提出された。NUなどのイスラミック・フェミニズム勢力が世俗フェミニズム勢力と共闘して法案を支持したのに対して、反フェミニズム陣営は、フェミニズムのリベラル思想を西洋的個人主義と見做し、イスラーム規範に基づく家族・性道徳の保守を主張して法案阻止に回った。 結局、法案は2019年9月会期末に採択できず、継続審議となった。ジェンダー公正を目指すフェミニズム運動が、組織的協力で法案を上程したという成果はあったものの、法案はイスラーム保守派のジョコウィ攻撃に利用され、大統領選の分極化に巻き込まれることになった。
第5章「2019年議会選挙―固定化する有権者の政党支持」(川村晃一・東方孝之)では、国会議員選挙の結果と投票行動の変動を検討している。民主化後の政党システムの不安定性(選挙参加政党数の変動、選挙毎の第1党入れ替わり、過半数を得る第1党なし等)が、しばしば問題視されてきたのに対して、 2017年に成立した「総選挙法」では、政党設立・選挙参加要件が引き上げられ、非拘束名簿式比例代表制と大統領選・議員選の同日選挙が導入された。その結果、今回は主要政党の得票率・議員数が前回と大きく変化せず、新規参入政党もなかった。 支持政党なしの無党派層(約80%)が前回と投票先を変えず、固定化の傾向が顕著となった。投票先を変更する場合も、同じ世俗派かイスラーム派の中での変更が主であった。すなわち、大統領選・議員選の同日選挙によって新党・小党の参加が困難となり、 これまで流動的であった有権者の投票行動も固定化する傾向を示しており、安定した政党間競争をめざす制度変更が実現しつつあると評価される。
第6章「2019年国会議員の特徴と民主化後20年の国会議員の変化―二大勢力化しつつある経済界関係者と地方政界出身者」(森下明子) では、国会議員の社会的・政治的背景に注目し、近年の議員構成の変化として地方政界出身者の増加を、過去20年の変わらない特徴として経済界出身者が多数派である点を指摘している。 増加する地方政界出身者は、ほとんどが地方政治エリートの家族・親族であり、地方首長・副地方首長・地方議員などの経験者によって占められ(約200名、国会議員全体の約35%)、主に世俗系政党を利用して中央政界入りしている。 民主化前は、中央官僚や国軍将校が地方政治ポストに天下ったが、現在は逆転現象が起こり、地方有力者は、民主化後の地方分権化で築いた政治的・経済的利権を維持・拡大するために政党と組んで中央政界に進出している。 また、国会議員を職歴別でみると、経済界関係者が多数派で約40%を占めている。こうして国会の2大勢力となりつつある経済界出身者と地方政界出身者が、今後どのような政治行動に出るかが注目されるという。 かかる動向を本章の筆者は、「社会的亀裂に沿った政党システムが政党内部から綻び始めている」と評している。
第2部「ジョコ・ウィドド第1期政権から第2期政権へ」
第7章「第1期ジョコ・ウィドド政権の政治―イスラーム保守派の台頭と民主主義の後退」(川村晃一) では、ジョコウィ第1期政権の政治手法を振り返り、第2期政権発足時に直面している国内政治の課題を検討している。 2014年の第1期発足時のジョコウィ政権は、少数与党政権であり、しかもジョコウィ自らが所属する与党第1党(闘争民主党)首脳との対立緊張もあって、政権は極めて不安定であった。これに対して、ジョコウィは野党の切り崩しを図り(閣僚ポストの提供)、 国民信託党の与党入り、ゴルカル党の政権支持を得て、第2次改造内閣では連立与党議席が69%に上昇、政権基盤を固めた。この政権基盤を背景に、イスラーム過激派のテロ活動が頻発すると(2016年以降)、反テロ法案を成立させ、 イスラーム保守派の反ジョコウィ攻勢が高揚すると、急進的イスラーム団体の解散処分など、強権的とも言える対応に出た。ジョコウィの多様性と自由主義を否定する手法は、民主主義の後退としてジョコウィ支持派からも批判された。 また、汚職撲滅委員会を弱体化させる法案の成立や、第2期発足時には政敵プラボウォ(元国軍将校で1998年ジャカルタ暴動の首謀者とみなされている、イスラーム保守派が支持)を国防相に起用するなど、批判勢力まで政権内に取り込んだが、 汚職の撲滅や人権擁護に期待した国民の失望感も強い(70%前後の支持率は59%にまで低下)。第2期政権では、「多民族多宗教の世俗国家におけるイスラームと政治」という困難な課題に直面することになる。
第8章「第1期ジョコ・ウィドド政権期の経済―経済成長と雇用・貧困削減の分析」(東方 孝之) では、ジョコウィ政権第1期の経済実績について、ユドヨノ前政権と比較しつつ経済成長、失業率、貧困削減の3点を中心に分析している。 2015年国家中期開発目標の実績でみると、経済成長(目標8%、実績5%前後)と一人当たりGDPは目標を大きく下回ったが、失業率と貧困人口率は改善した。経済成長目標の未達成は、輸出のマイナス成長が大きく影響した。 ユドヨノ前政権では、天然資源ブームで鉱山物燃料(石油、液化天然ガス、天然ガス、石炭)の輸出が高成長を牽引したが、ジョコウィ政権では資源輸出の低迷が成長を押し下げることになった。 失業率の改善は、最低賃金・平均賃金の上昇と軌を一にしており、これは平均賃金の上昇率が労働生産性の増加分を上回ったことによると考えられる。ただし、失業率の低下は、被雇用者ではなく自営業者の増加とインフォーマル部門での雇用吸収に支えられている点には注意を要する。 貧困削減に関しては、ユドヨノ期には経済成長と格差拡大(ジニ係数上昇)が同時進行し、貧困削減を伴わなかったが、ジョコウィ政権(第1期)では経済格差の縮小(ジニ係数0.4から0.38へ)に伴って貧困人口比が減少した(11%から9%へ)。 経済格差縮小の要因としては、賃金プレミアム(中等教育修了者と比較した高等教育修了者の賃金)の低下と労働分配率の上昇が推測される。ジョコウィ第2期政権では、内需の低迷と失業率上昇が懸念材料である。 雇用の不安定要因としては、被雇用者の雇用寄与度が低く、しかも被雇用者の4分の1が有期雇用である点にも留意すべきである。
第9章「ジョコ・ウィドド政権の再分配政策―社会保障制度と社会扶助プログラムの展開」(増原綾子)では、ジョコウィ第1期政権の各種社会福祉政策の達成度と課題が示されている。社会保障政策では、国民皆保険制度である国民健康保険証の加入者が2014年の人口比52%から2019年83%に上昇した。制度の大幅赤字から、 負担料の引き上げや実施体制の不備なども指摘されている。労働関係の社会保障は、労災補償・死亡給付・老齢給付・年金の4種であり(2015年開始)、2019年までに5100万人が加入した(保険料支払い約3000万人)。社会扶助プログラムには、コメ・食糧手当、子供手当、一時的現金直接扶助などが実施されている。 これらの社会保障で膨らむ予算増に対しては、主に電力・燃料補助金の大幅カットで対応しており、再分配のあり方が、電力・燃料補助から社会保障・社会扶助にシフトしている。こうした施策は、貧困率の低下や格差縮小などで一定の成果をあげており、 国民の支持も得ている。今後の課題は、インフォーマル部門の保険料徴収、社会扶助プログラムでの汚職・不正、労働保険におけるインフォーマル労働者の加入問題などである。
第10章「ジョコ・ウィドド第2期政権の展望」(佐藤百合)では、ジョコウィ第2期政権の政策と政権の展望が纏められている。ジョコウィ政権は、長期目標では、第1期中に発表した「インドネシア・ヴィジョン2045」(2045年[建国100年]までに世界有数の高所得国となる)を公約の基礎として、 2期目の政策枠組み「ヴィジョン・ミッション」を発表している。そのミッションでは、第1期に比べて人的資源開発と経済開発を最重要アジェンダとして強調している。発足した内閣でも、経済関連閣僚の再任、企業家の多用が目立つ。 第2期5年の5カ年開発計画である「国家中期開発計画2020―24」は@成長と分配、Aインフラ開発、B人的資源開発、C環境政策を柱とするが、第2期の政権発足時に浮上した当面の課題は、雇用創出法、国営企業改革、首都移転であった。 第2期政権の展望としては、国際的な逆風(中国の成長鈍化、資源ブームの終焉、保護主義、米中覇権対立、コロナ禍)の中で、如何に成長・開発を前進させるかであるが、そのための社会統制や民主主義の後退は懸念材料となっている。
以上が本書の要約である。各章の論点は多岐にわたるが、ジョコウィ政権の実績と展望の分析が、国内の政治・経済・社会の主要課題に絞られており、国際関係の分析が弱いという印象を受ける。国際経済や安全保障、 とりわけ2015年成立のASEAN経済共同体の中でのインドネシア(ジョコウィ政権)の国際戦略なども重視すべき課題であるが、ほとんど語られていない。国内政治に関しては、世俗派VSイスラーム保守派の社会的亀裂というベクトルと、 経済界出身者・地方政界出身者という2大勢力化のベクトルとの関係をどう整合的に説明するのか、本書では判然としない。またイスラーム保守派の政治的台頭については、なぜ保守派の大規模な攻勢が可能なのか、必ずしも明らかではない。 これに関しては、グローバリズムや米中覇権争いに対抗する国内外のイスラーム勢力の動向という国際環境からのアプローチも必要だろう。
最後に、評者の視点から、ジョコウィ政権の評価に関して付言しておきたい。今後のジョコウィ政権は、イスラームの政治化、地方既得権益層の中央進出、低所得層への社会福祉、労働市場の柔軟化、これらにどう対応するかが問われることになろう。 やや敷衍すれば、スハルト時代、強権的に押さえ込まれていたイスラーム勢力や地方利権が、民主化後の自由化や地方分権化によって束縛を解かれ、それによって多様性を前提とした民主的国家統合へと進むことが期待された。 しかし、2010年代の政治過程では、イスラーム保守派と世俗派の分裂が一層明瞭になり、ジョコウィのイスラーム勢力取り込み=政権維持政策は、マアルフ・アミンを副大統領に、プラボウォを国防相に起用するなど、自らの政権基盤を脆弱にする不安定要素を抱え込んでいる。 汚職撲滅委員会の弱体化などは、明らかに民主主義の後退である。つまり、民主化と地方分権化は、多民族・多宗教の利害調整による統合の方向ではなく、その期待に反して社会の分断と不安定化を生み出している。 一方、「庶民派」大統領ジョコウィが進めてきた低所得層への失業・貧困対策も、統計上は一定の改善がみられるものの、その内実は雇用の不安定化やインフォーマル部門の拡大などの不安材料を伴っており、雇用改革によって名実ともに前進させる必要がある。 2期目に入っても成長と開発を最優先課題とするジョコウィ政権であるが、再分配政策の実質的前進こそが持続的な成長・開発のカギではなかろうか。




※小西鉄『新興国のビジネスと政治―インドネシア バクリ・ファミリーの経済権力』京都大学学術出版会、2021年
インドネシアの財閥に関する研究では、戦前の黄仲涵や戦後スハルト期のサリムやリッポなどの華人系財閥の研究蓄積はあるものの、プリブミ系財閥に関する本格的な先行研究はほとんどなく、本書はプリブミ系を対象とした最初の研究成果と言ってよい。 本書が対象とするバクリ・グループは、大企業の売上げランキングで1996年の17位(プリブミ系のみではスハルトのファミリー・グループ2社についで3位、他の20位以内はすべて華人系)から2011年には5位に躍進してプリブミ系企業のトップに躍り出ている。 以下、各章の要点をみていく。
序章「バクリ・ビジネス論の意義」。本書の課題として著者は、「政治経済条件が大きく変化したポスト・スハルト期に、プリブミ系ビジネス・ファミリーが経済権力を維持・拡大できたのはなぜか」と問うている。 そしてポスト・スハルト期の2度の危機(1997年アジア経済危機および2008年世界金融危機)と民主化後の「改革」を克服して、絶大な経済的・政治的影響力を持つようになったバクリ・ファミリーを分析する意義が強調される。
第T部「議論の設定―ビジネス・ファミリーと政治経済」第1章「経済権力のダイナミクス―理論的枠組みの検討」。先行研究として寡頭制理論や企業研究の諸潮流を取り上げた上で、ビジネス・アクターの内的動態に踏み込んでビジネス・ファミリーの台頭を説明する必要性を指摘している。 本来危機と改革で削がれるはずの経済権力を維持・回復するために、ファミリーが行った取り組みの検討が重要視される。
第2章「インドネシアにおけるファミリー・ビジネス」。インドネシアの大規模ビジネス・グループが分類され、代表的グループの概要が示されている。所有形態別には、華人系、プリブミ系、旧アストラ系、外資系グループ傘下のアストラなどに分類されるが、 さらに政治権力との関係を加えて複眼的にみると、華人系最大グループのサリムがポスト・スハルト期に政治権力志向からプロフェッショナル型にシフトしたのに対して、プリブミ系バクリが最も政治権力志向が強いグループとされる。
第U部「バクリ・ファミリーのビジネス」第3章「バクリ・グループの政治経済史@―ベンテン政策の成功例」。バクリ・グループの創業者アフマド・バクリ(1916年生まれ)は、戦前〜日本軍政期に商業活動を拡大し、 スカルノ期のベンテン計画を契機に製造業に進出して鉄鋼業を基幹部門とした。スハルト体制の輸入代替期(1970年代〜80年代初め)には、鉄鋼と農園を中心に外資との合弁や国有企業との関係緊密化によって事業は拡大局面に入った。
第4章「バクリ・グループの政治経済史A―「プリブミのスター」の政治コネクション」。1980年代後半には、ファミリーの長男アブリザルが牽引するバクリ・グループ第2世代の経営改革が始まる。当時の金融自由化とプリブミ保護政策の波に乗って、 プロフェッショナル経営陣の登用や資本市場への上場による所有開放、経営の多角化と主力持ち株会社へのグループ企業の再編、スハルトのファミリー・ビジネスとの連携、国家プロジェクトへの参画などを進めると共に、 ファミリーが資本の90%を所有し最終的な人事権を保持してグループの所有と経営を支配した。権力志向の強いアブリザルは、プリブミ系ビジネスのリーダー的存在として、KADIN(インドネシア商工会議所)会頭を務めるなど、 スハルト体制下でも政治的影響力を行使した。
第5章「ファミリーによる経済権力の維持@―金融取引とビジネス・ネットワーク」。1997年経済危機による株価下落とともに、バクリ・グループも巨額の債務を抱え、グループの株式を国際債権者団に手放して債務処理にあたった。 ファミリーの株式所有比率は75%から23%に低下したものの、新株を担保に資金調達する方法で実質的な企業所有権の維持を図った。ポスト・スハルト期のユドヨノ政権でアブリザルが入閣して政治活動を本格化させると(2004年)、 ファミリーの次男ニルワンがビジネスの実権を握ることになる。
第6章「プロフェッショナル経営陣による刷新―資金調達の国際化と石炭事業の重点化」。2004年頃からはボビー・ガフル・ウマル(主力企業BNBRのCEOに就任)らの非ファミリーのプロ経営陣によって事業戦略の転換が進められ、 石炭を中心とするエネルギー産業とインフラ部門が主力となった。ボビーらは、外資系金融機関からの短期資金調達で手腕を発揮し、タックス・ヘイブンでの子会社設立による税回避でも純利益を拡大した。 また、ユドヨノ期(第1期)の成長産業である石炭業の国家プロジェクトにいち早く参入できたのは、アブリザルの入閣(経済担当調整大臣)による便宜供与が要因であった。
第7章「ファミリーによる経済権力の維持A―2008年債務危機での「財務のための財務」とガバナンス」。2008年世界金融危機では、海外金融に依存していたバクリ・グループは大打撃を受け、更にエネルギーブームの終焉がそれに拍車をかけた。 金融危機による巨額の損失には、資産売却と減資によって対処した。その後も工業部門の多角経営と拡大路線は継続し、それは国際金融への依存による高リスクの資金調達によって支えられた。
第V部「バクリ・ファミリーの政治」第8章「ビジネス界での政治的影響力の拡大―KADINネットワークとビジネス支援」。ポスト・スハルト期、アブリザルが会頭を務めるKADINは政策提言活動を活発化させ、 アブリザルはKADINを通して経済政策への強い影響力を保持した。アブリザルの政界転身後も、KADIN幹部はバクリ系によって占められた。KADINの実業家たちへは、バクリ・グループからの資金協力を通して影響力が行使され、 バクリはそのネットワークを政治活動にも利用した。
第9章「政界での政治的影響力の拡大と行使―「政党の企業化」と政策・市場への影響力行使」。アブリザルは、軍人に代わる支持基盤としてKADINを与党ゴルカル党に取り込み、2004年の大統領選挙では、ゴルカル党内の候補者選挙で政治的影響力を拡大した。 アブリザルがユドヨノ政権で入閣できた要因は、大統領選挙でユドヨノとカラ(副大統領候補)の選挙資金を提供したことであり、入閣後の政権内では同じプリブミ系実業家出身のカラ副大統領(ゴルカル党党首、ゴルカル党は政権与党)と協力して、 ビジネス界の利害を代弁した。2009年にはアブリザルがゴルカル党新総裁に選出され(任期5年)、バクリ関係者や協力者が中央執行部の要職に就いている。その後のゴルカル党は、経済界・大企業の利益を代表する傾向が一層顕著になっている。
以上の分析を踏まえて著者は、「一つのビジネス・ファミリーが自らのネットワークをフル活用して政党と資本市場を私物化」したと結論づけている。確かに、ファミリーのトップが政界入りしてグループ企業への利益誘導をはかりバクリの成長を支えたとすれば、 それはインドネシアの民主化の限界を示す典型例ともいうべきであろう。
本書は、丹念な資料収集と関係者へのインタビュー調査によって、バクリ・ビジネスの様態と政治的影響力の増大を跡づけており、その実証的成果は評価できる。
最後に著者のバクリ・ビジネス論にひとつ疑問を提示しておきたい。著者は、2000年代に入って非ファミリーのプロ経営陣による経営刷新が進んだ後も、バクリはファミリー・ビジネスとしての特徴を維持していたとみているようである。 その根拠は、主力企業においてバクリ一族が最終的な人事権を保持していたことである。しかし、2000年代に入って非ファミリーのプロ経営陣が主力企業のCEOや取締役に就任して事業戦略を転換させ、国際金融からの資金調達によって自立的に日常業務を担ったのであるから、 それはバクリの経営実態を大きく変容させたのではないかとも考えられる。一般にファミリー・ビジネスの優位性と見做される特徴は、「激しい経済変動に対応する迅速な意思決定と未発達な資本市場ゆえの一族による機動的な資金調達」にあると言われる(末広昭『ファミリー・ビジネス論』)。 バクリの場合、ファミリーがいかに政治的影響力を行使して利益誘導をはかったとしても、企業経営の日常的な担い手に着目するならば、ファミリー・ビジネスの特徴を維持しているとはもはや言い難いように思われる。 そうだとすれば、現代(2000年代以降)のバクリ・ビジネスを旧来のファミリー・ビジネス論の枠組みから説明するのではなく、新たな性格付けによってアジアのビジネス・グループ論を豊富化するという視点から捉えた方がよいのではなかろうか。




※中島成久『アブラヤシ農園開発と土地紛争―インドネシア、スマトラ島のフィールドワークから』法政大学出版局、2021年
今世紀に入ってインドネシアのパームオイル生産は急成長を遂げており、マレーシアを追い抜いていまや世界最大のパームオイル生産国になっている(3450万トン、全世界の58%―2016年)。アブラヤシ農園は全国で880万ha(雇用労働者約400万人)に達し、 いまやパームオイルは石炭と並んで最大の外貨獲得源となっているが、一方で農園開発による環境破壊も問題視されており、開発に伴う土地紛争も後を絶たない(例えば2016年のアブラヤシ農園での土地紛争は163例、紛争農園用地は60万ha)。 本書は、西スマトラを事例としてアブラヤシ農園の開発に伴う土地紛争に焦点を当てており、文化人類学者による実証研究の成果である。まず、本書の概要をまとめておこう。
序章「アブラヤシ農園と土地紛争」で筆者は、本書の目的として「民主化・改革期に入って益々頻発する土地紛争を、スマトラを事例として、変遷する土地政策と開発政策を軸に分析し、その原因を明らかにして紛争解決の方向性を示すこと」としている。 また、「共有地権」(Hak Ulayat)をはじめとする慣習法社会に特有のキーワードの訳語についても、ここで解説されている。
第T部「土地紛争の淵源」第1章「土地権の歴史的展開」では、慣習法的な共有地権の土地政策について、植民地期、スカルノ政権期、スハルト政権期、民主化・改革期の変遷を辿っている。 スカルノ期の1960年土地基本法で植民地時代の土地法が一旦清算され共有地権を承認したものの、スハルト期1967年林業基本法によって国家指定の森林域に事業権が設定され、共有地権が一方的に剥奪されたこと、 改革後は再び共有地権を承認する方向が示されたが、実際の地権証明は困難で実状と乖離していること、等が指摘されている。その上で、西スマトラ・ミナンカバウ社会のナガリ(村)共有地の管理の歴史的変遷と改革後の土地紛争の要因が述べられている。
第2章「大農園に有利な土地分配政策への転換」では、アブラヤシ農園開発における土地配分について、中核農園と小農の土地配分比率が1980年代以降の2:8から2007年法令(パートナーシップ政策)で8:2に逆転して農園企業に有利な配分となったことが指摘されている。 ジャンビ州などでは、配分比率の変更を契機として、中核農園に資本・技術を依存するプラスマ小農民だけでなく、資金力のある国内移住民の自営小農民も増加傾向にあるという。
第U部「アブラヤシ農園開発をめぐる土地紛争の実態」第3章「狩猟採集民族オラン・リンバの土地権―巨大アブラヤシ企業への抵抗と生存戦略」では、ジャンビ州の狩猟採集民族であるオラン・リンバの土地権問題を扱っている。 政府・企業による一方的なアブラヤシ農園用地の設定によって、森林を遊動域とするオラン・リンバは生活圏を奪われ、プラスマ農民(主に移住民―ジャワ人・ムラユ人)とも対立している。 民主化・改革期に入って政府は、慣習法共同体の共有地権は認定する方針を打ち出しているものの、それは移動を繰り返す先住民には適用されず、彼らの土地権は保証されていない。アブラヤシ農園開発は、先住民族の権利保全を脅かす一因ともなっている。
第4章「共有地権をめぐる闘いー西パサマン県の事例より」は、西スマトラ州のアブラヤシ生産中心地である西パサマン県を事例として、ミナンカバウ母系制社会のナガリ共有地を利用した農園開発と土地紛争を紹介している。 当地の土地紛争は1万1000haのアブラヤシ農園(2230世帯)で頻発しており(2012年)、企業と住民(小農)との土地配分比率や補償金を巡る紛争には、軍・警察・ブレマン(企業が雇うヤクザ)が暴力的介入を繰り返している。 しかも、ナガリ共有地の譲渡に関しては、ナガリ成員間での合意形成も容易ではなく、共有地=総有制の権利関係をどう把握するのかという問題も顕在化している。
第5章「アブラヤシ農園開発とニアス人違法入植者排斥事件」では、西パサマン県のアブラヤシ農園で労働者の多数を占めるニアス人と彼らが入植地の保全林から暴力的に排除されるプルセスを追っている。 ニアス人はニアス島から債務移民の農園労働者として保全林に違法入植していたが、2010年には保全林から追放された。同じく違法入植していたミナンカバウ人・ジャワ人・バタック人は排除されず、背景にはニアス人に対する地元住民の差別意識があるという。
第6章「違法入植者に土地権はあるのかークリンチ・スブラット国立公園の事例分析」では、保全林や国立公園における違法入植者の増加がもたらす問題が取り上げられている。 背景には、地方分権に伴って森林資源の管理権限が地方政府に移り、伐採権・採掘権などによる収益が地方に有利に配分されることがある。県知事による違法伐採の容認や、県エリートと違法入植者との癒着も後を絶たない。 調査対象の国立公園内(ジャンビ州ムランギン県の事例)では、数万人の違法入植者(ベンクールー、南スマトラ、ランポンなどから入植)が公園内の土地を耕作地として利用しており、こうした事態への政策的対応が求められている。
第V部「アブラヤシ農園をめぐるヘゲモニー関係」第7章「土地紛争と治安機構」では、紛争農園に常駐する治安機構(警察機動部隊、地元警察、農園パトロール隊、ブレマン)と様々な紛争の実態が紹介されている。 紛争農園では警察と企業の警備員が連携して紛争の取り締まりにあたっており、地方政府は紛争仲介者として機能せず、むしろ農園を誘致して地方財政を確保しようとする。 農園紛争の形態は、住民による地方政府への陳情、告訴・裁判闘争、道路封鎖・農園占拠・搾油工場の封鎖などの実力行使であり、これに対して警察・警備員・ブレマンらの反対派住民・NGO支援メンバーへの暴力事件、住宅の破壊・焼き討ちなどが頻発しているという。
第8章「アブラヤシ農園ニアス人労働者をめぐるヘゲモニー関係」では、調査企業の事例に基づいて、ニアス人農園労働者の管理の実態が示されている。 農園労働(常雇と日雇い)はマンドゥル(現場監督)の下に管理され、治安機構による「威嚇の体系」が機能している。労働のノルマ制(労働者は家族の無償労働にも頼ってノルマを達成する)・罰金制は長時間労働とならざるを得ず、常雇でさえ最低賃金の水準にあるという。
終章「土地紛争解決への提言」では、総括的な提言が以下の5点にわたって述べられている。共有地権の保証、事業権の透明化、用語統一(先住民族・慣習法社会)、土地収用の方法と補償、調停機関としてのRSPO(持続可能なパーム油のための円卓会議)の役割。
以上が本書の要約である。長期の現地実態調査に基づくアブラヤシ農園開発と土地紛争の例示は、貴重な実証的成果と言ってよい。特に、「共有地」や「慣習法社会」に関する現地語の用語整理、慣習法社会における共有地の権利関係が孕む問題点、 共有地に設定されたアブラヤシ農園用地における新たな権利関係などの分析は有益である。終章の政策提言もほぼ妥当なものと思われる。
本書は西スマトラを事例とする研究であるが、慣習法社会における共有地の権利関係は、各慣習法社会ごとに異なっている。 アブラヤシ農園開発に伴う土地紛争は全国的に拡大しており、外島(ジャワ以外の諸島)各地の慣習法社会における共有地の権利関係を整理して政策的に対処することが喫緊の課題となっていることを本書は示唆していると言えよう。 また本書によれば、アブラヤシ農園開発に伴う土地問題の深刻さは、スハルト体制期のそれと本質的にはほとんど変化していないことも明らかである。農園開発の事業許認可の権限が中央政府(スハルト)から地方政府(主に県長)に移ったことや、 事業に伴う税収の配分比率の変更などはあるが、地方政府と企業との癒着、軍・警察を動員した一方的な土地収容や地元民の懐柔、農園における労働者・農民への日常的な脅迫・暴力などは何も変わっていない。 ここにも民主化の限界と地方分権化の弊害を見ることもできよう。
最後に、本書へのコメントとして、評者の研究領域から言えば、農園企業の経営内容や労使関係、労働現場における労務管理や労働条件・雇用条件などについて、国営・外資系・財閥系企業のそれぞれについて詳しく知りたいところである。 そうすれば、中央・地方の政府当局者だけではなく、農園開発を現場で担う企業(資本)の側からの共有地権問題への関わりも明らかとなるだろう。




          
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